スクープ「北朝鮮拉致の闇に潜む日本人協力者」社会党元幹部・岡崎圭介と疑惑の全貌

北朝鮮による日本人拉致事件――1970年代から80年代にかけて、数十人から数百人が日本や欧州から連れ去られた衝撃の事件。その裏で、日本人グループが北朝鮮工作員に協力していたという驚愕の疑惑が浮上している。筆者が入手した情報と岡崎圭介についての告発をもとに、拉致問題の「黒い闇」を追った。元東久留米市市議・舘雅子氏の証言、レフチェンコ事件で社会党を弁護した弁護士・山口広氏、そしてスパイ防止法を巡る攻防が絡むこの事件。その真相とは?1945年~1957年:戦後の混沌、社会党と総評の台頭戦後、日本の労働運動はGHQの後押しで急成長。1945年に結成された日本社会党は、全労連全国労働組合連絡協議会)を通じて日本共産党(日共)の影響下にあったが、距離を保つ。1950年、朝鮮戦争を機にレッドパージ全労連が解散。反共を掲げる総評(日本労働組合総評議会)が誕生し、高野実、鈴木茂三郎、太田薫らが社会党左派の基盤を固めた。1955年、社会党は左右統一、総評の300万人の組織力を背景に「総評政治部」化。1957年、社会党は「階級政党」を掲げ、革命路線に突き進む。この時期、岡崎圭介(1920年代後半生まれ推定)は新潟県立柏崎高校を卒業、早稲田大学に進学するも中退。北朝鮮との接点はまだない。1964年頃:岡崎、社会党入党と「共和国連絡部」の影新潟県柏崎市出身の岡崎は、1960年代中盤、地元教師の女性と「デキちゃった結婚」で妻と2人の子を持つ。噂では「○○子と駆け落ち」と囁かれた。上京後、社会党に入党し、左派活動に身を投じる。『正論』(2003年3月号、6月 号)の投書によると、岡崎は社会党の「朝特委」前身組織に関与。この組織は後に「共和国連絡部」となり、北朝鮮との密接な連携を担ったとされる。同時期、蓮池薫(1957年生、柏崎市在住)の両親――父・秀量(日教組)、母・ハツイ(自治労)――は社会党に近い活動家だった。岡崎と蓮池家の接点が、後に疑惑の核心となる。1972年7月18日:平壌への密使、社会党北朝鮮接近1972年、岡崎(36歳前後)は社会党朝特委(団長:足鹿覚)の訪朝団として平壌へ。金日成主席を祝賀し、朝鮮の社会主義建設と平和統一を支持する共同声明を発表。この訪朝は、社会党左派の北朝鮮シフトを象徴する。投書によると、岡崎は共和国連絡部の「人材提供班」に所属、新潟で拉致対象者の情報収集を開始。蓮池薫(当時15歳、柏崎高校)は、両親の社会党ネットワークを通じて岡崎のレーダーに引っかかった可能性がある。総評の支援の下、社会党は選挙資金と組織力を確保していた。1977年3月14日:東京で囁かれた「拉致の5原則」1977年、東京・自治労会館ホールで開催された「朝鮮の統一のための世界会議」報告会に岡崎が出席。社会党と総評系労働組合自治労)が主催し、田英夫立木洋ら左派議員が顔を揃えた。投書によると、岡崎は共和国連絡部で拉致対象者を選定する「5原則」(代議士、警察、外国人、名士との関係なし、格闘技経験なし)に関与。蓮池薫(20歳、東京大学在学中、柏崎帰省時)の情報が北朝鮮に提供された可能性が指摘される。この時期、総評は1975年のスト権奪還スト失敗で求心力を失いつつあったが、社会党北朝鮮友好は続いた。1978年6月:蓮池薫拉致、岡崎の影1978年6月、蓮池薫(21歳)が柏崎の海岸で北朝鮮工作員に拉致される。投書は、岡崎が共和国連絡部を通じて蓮池の情報を提供、5原則に合致する「理想的対象」とされたと主張。蓮池の両親(秀量、ハツイ)が社会党ネットワークにいたことが標的選定の背景か。岡崎の直接関与は不明だが、柏崎での活動が疑惑の中心に。警察白書(昭和57年、59年)は、北朝鮮工作員が日本で活動し、拉致を実行した実態を記録している。1979年12月:レフチェンコ事件、スパイ防止法の火種1979年、元KGB工作員レフチェンコが米国で日本のソ連スパイ活動を暴露。社会党の関与が疑われ、国際勝共連合スパイ防止法制定を推進。社会党は猛反発し、後に全国霊感商法対策弁護士連絡会全国弁連)を設立する山口広(元全共闘、福岡教育大附属小中、ラ・サール高、1972年東大法学部卒、1975年司法試験合格)が弁護を準備。この事件は、社会党北朝鮮の関係にスポットを当て、拉致問題の背景を浮き彫りにした。岡崎は共和国連絡部で活動を続け、拉致疑惑が深まる。1983年:レフチェンコ裁判と岡崎の立候補1983年、勝共連合社会党名誉毀損で提訴(『社会新報』のレフチェンコ報道が対象)。山口広が社会党代理人として活躍。裁判は1994年に社会党が解決金200万円を支払い和解。同時期、岡崎(47歳)は新潟3区衆議院選挙に社会党公認で立候補するも、田中角栄の地盤に阻まれ27,597票で落選。投書は、選挙資金(約1000万円、現在の2000万円以上)が北朝鮮関連と主張。岡崎の新潟活動は、拉致協力の「隠れ蓑」だったのか? 総評の支援は衰えつつも、社会党北朝鮮シンパは続いた。1984年2月:舘雅子証言、柏崎の「黒い闇」1984年2月、元東久留米市市議・舘雅子が柏崎で行政視察中、衝撃の事実を目撃。豪雪の中、刈羽原発視察後、海辺を歩こうとすると市職員に「海の向こうは外国」と警告され、強制的に車で宿へ送られる。宿の女将が囁いた。「北朝鮮 の船が沖に泊まり、アベックに網をかぶせて連れ去る。日本人も手伝っている」。翌朝、舘は6~7人の男女が談笑する姿を目撃。彼らは「国鉄・電電民営化反対」「中曽根内閣打倒」「金日成南北統一万歳」「社会党朝鮮労働党友好」と書かれたチラシを手に、北朝鮮拉致に加担する具体的な手口を議論。女将の話では、沖の黒い船と掘っ立て小屋で交信し、拉致対象者を5原則に基づき選定していたという。岡崎の直接関与は不明だが、社会党の影が濃厚だ。1985年~1986年:岡崎離党、共和国連絡部解散1985年、岡崎が社会党を離党。「20年以上党中央の専従者」と語る(1997年寄稿)。1986年、共和国連絡部は社会党本部命令で解散。田辺誠が「発展的解消」と説明するが、岡崎は納得せず。投書によると、共和国連絡部はY女史主導で30~40人規模、月1~3回の密会で北朝鮮に情報・資金を提供。総評は1989年解散へ向かい、社会党の基盤は崩壊。スパイ防止法反対は全国弁連(山口広)に引き継がれる。1986年10月~1987年10月:全国弁連の暗躍1986年10月、小野毅弁護士が全国弁連設立の経緯を暴露。「被害者は1人だったが、マスコミで被害者を発掘」と発言。山口広は全国弁連の中心として、スパイ防止法反対キャンペーンを展開。1987年10月、『朝日ジャーナル』編集長・伊藤正孝が「霊感商法被害は5%未満」と漏らすが、勝共連合社会党の対立を煽る政治的意図が明らかに。社会党スパイ防止法反対は、拉致問題の背景に影響を与えた。1989年:社会党の致命的失態1989年、社会党土井たか子党首)、公明党社会民主連合の議員133名が、在日韓国人政治犯(拉致実行犯・辛光洙含む)の釈放を韓国政府に要望。土井は1984年の衆院外務委員会で釈放を要求していた。後に自民党共産党から非難され、菅直人が謝罪。この失態は、社会党拉致問題への疑惑を深めた。1991年~1997年:岡崎の告発前夜1991年、岡崎(56歳)は埼玉県大宮市で自由業として朝日新聞「声」欄に寄稿。「社会主義の芽、否定できない」と左派思想を堅持。1992年、読売新聞「気流」欄で新潟県知事選の社会党妥協を批判。1993年、朝日新聞「オピニオン」欄で社会党東京都議選惨敗を糾弾。1997年、朝日新聞「論壇」欄で社会党の選挙態勢を批判。社会党は総評解散(1989年)と分裂(1996年)で衰退。岡崎は1996年新潟3区立候補を資金不足と健康問題で断念。2002年9月17日:蓮池薫帰国、疑惑の再燃2002年、小泉純一郎首相の訪朝で金正日が拉致を認め、蓮池薫夫妻、地村保志夫妻、曽我ひとみ(計5人)が帰国。北朝鮮は17人のうち「8人死亡、4人未入境」と主張するが、遺骸などの証拠は皆無。蓮池薫(45歳)の帰国が、岡崎についての告発を促す。岡崎と蓮池は同郷・同高校、両親の社会党ネットワークが疑惑の根拠に。2002年11月15日:岡崎についての衝撃告発埼玉県春日部市に住む岡崎(66歳前後)は『正論』(2003年3月号)に匿名投書。共和国連絡部の拉致関与を告発し、2003年6月号で田辺誠を実名公表。蓮池薴帰国が動機だが、取材拒否し「荒唐無稽」「名誉毀損」と反発。岡崎の資産(埼玉の家・マンション、那須塩原の別荘)の資金源も北朝鮮関連と疑われるが、証拠なし。2017年~2020年:拉致問題の国際化2017年、トランプ大統領拉致被害者家族と面会。「拉致問題は私の頭に常にある」と発言。2019年、地村保志が安倍晋三首相に早期解決を要望。安倍は「金正恩と向き合う」と意欲。横田早紀江は「北朝鮮も平和に」と訴える。2020年、横田滋が死去(享年87歳)。社会党の過去(土井たか子野中広務亀井静香、若山ら)が批判されるが、解決は日朝首脳会談に委ねられる。疑惑の真相は?岡崎圭介についての投書と舘雅子証言は、社会党の拉致関与を強く示唆。山口広の全国弁連スパイ防止法反対で社会党を支え、拉致問題の背景に暗い影を落とした。しかし、 証拠不足で真相は闇の中。筆者は引き続き、拉致の「黒い闇」を追う。
出典:
  • 『正論』(2003年3月号、6月号)
  • 朝日新聞(1991年9月16日、1992年10月15日、1993年6月30日、1997年1月14日)
  • 読売新聞(1992年9月23日)
  • 選挙ドットコム(1983年新潟3区