雑誌「正論」2025年6月1日発行(通巻646号)の「操舵室から」では、旧統一教会の会長インタビュー掲載をめぐり、自由の本質とその危険性を問い直す論考が展開されている。以下、記事が問題視する核心を整理し、その主張を中心に解説する。
問題視されるポイント:自由の危険性と一貫性の欠如
「正論」は、旧統一教会のような社会的に批判される宗教団体の主張を掲載することに対し、予想される反発を承知で敢えて取り上げた。その理由は、思想・良心の自由および信教の自由が日本国憲法で保障されている以上、どんな信仰も制限されるべきではないという原則を強調するためだ。記事は、たとえ旧統一教会やオウム真理教のような「狂信的」とされる団体であっても、犯罪行為がない限り、その信仰を理由に国家が制裁を加えることは「自由の弾圧」だと主張する。
さらに、自由を貫くなら、ナチズムや中国共産党崇拝、テロリズムのような極端な思想も「存在」として許容せざるを得ないと指摘。現代人が軽々しく「自由」を口にする一方で、自由が内包する危険性を真剣に考えていないと問題視する。特に、信者が大金を宗教団体に献金する行為は家族にとって同情すべき事態だが、それも個人の自由な選択の結果であり、国家が介入すべきではないと述べる。
戦後民主主義という「信仰」
記事のもう一つの焦点は、戦後日本の価値観とその矛盾だ。戦後日本は、伝統的宗教も新興宗教も、左右の政治信条もすべて「等しい扱い」とし、個人の自由を最大限に尊重する社会を築いた。しかし、国民主権の民主主義だけは「絶対の真理」として別格扱いされ、他の価値観を凌駕する「信仰」として機能していると批判する。
この「民主主義信仰」は、自身の危うさを省みず、特定の信仰(例:旧統一教会)を危険視する傾向を生む。記事は、他人の信仰を批判する前に、自身が信じる民主主義の前提を疑うことの重要性を訴える。こうした自己反省の欠如こそが、かえって「狂信」への道を開くと警告する。
自由の両面と現代社会への問い
「正論」が強調するのは、自由が単なる美辞麗句ではなく、危険と表裏一体であるという現実だ。旧統一教会のインタビュー掲載は、自由の原則を守るための試金石として意図された。社会が特定の信仰や思想を排除しようとする動きは、自由の抑圧につながりかねない。だが同時に、極端な思想や行為をどこまで許容するかは、自由主義社会にとって永遠の課題である。
記事は、現代人に突きつける問いとして、**「自由をどこまで本気で信じるか」**を提示する。民主主義を絶対視する「信仰」に無自覚なまま、特定の団体や思想を排斥する姿勢は、自由の精神そのものを損なう危険があると訴える。
読後感:自由と平和の関係、岸田政権への非難
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